変わんない馬鹿な暮らしをしたいだけ

ツイッターについてここ数ヶ月思っていることを書いてみたい。

ツイ廃なんて言葉があったり、ツイッターはまるで生産性のないツールみたい言われてるのを見聞きすることが多い気がする。
無限に情報が循環するその場所は、自分だったりAIだったりが選んだ好みの情報、そうでもない情報がお手軽に手に入り、ちょっとした時間の使い方としてはつい選びがちだし、ちょっとした時間のつもりがずいぶんと長い時間を費やしていることもある。
そういう時、時間を無駄にしてしまったな…と思うことは確かにある。例えば、この時間を集めたら映画を観たり、本を読んだりできたな…みたいなことを思うけど、なんでそんな風に思うのだろう。この時間だって楽しかったはずなのに。自分で選んだはずなのに。大好きなアイドルや芸人さんだったり、オタクの様子なんかも知れる時間。

なんでそこまでツイッターの肩を持つのかと言うと、自分の変化を感じたからだ。
ここ1、2年でツイッターの用途を趣味全般用に変えてから、以前よりも映画やドラマ、本なんかへの自分なりのセンサーみたいなものが一応できている気がしてて(なんとなくこれ気になるな面白そうだなという気持ちがハッキリしてきたという意)、決して数は多くないけど、そうやって観たり読んだりした物たちのおかげもあって、自分が変われている部分が確実にあると感じる。

そうするべき時に、冷静に考えて、自分に非があると思ったら素直に認めてそれを伝えて、納得いかないことがある時はどうしたら相手が理解してくれるか考え、伝えて…といったことが以前よりもできている。と思う。
もちろん冷静でいられる時ばかりではないけど、対話から逃げずに、感情に流されずにしっかり気持ちを言葉で伝えて、100%伝わったかは分からないし、伝わらないとショックを受けることもあるけど、自分の対応一つで起きていたかもしれない争いを起こさずに済んだのかもしれないと思うとなんだか嬉しい。(もちろん相手の理解もあってのこと)
まあ、昔と比べて体力が落ちたせいで無駄に感情を表出できなくなったのかもしれないけど。

そして、こんな変化は誰もが経験しているのかもしれない。けどそれをわざわざ表に出す人はあまりいない気がする。そんな余裕ない時はないし、そもそもそれをしたいと思わない人もいる。
けど今の自分は残しておきたかった。何年後かに読んで、「この時こんなこと思ってたんだ」と恥ずかしがりながら懐かしみたい。

ツイッターよ、ありがとう。
急に距離感が変わる時が来るかもしれないけどね。




おまけ

マウントレーニアのカフェラテを飲みながら散歩に行って、コンビニでマウントレーニアのカフェラテを2本買って帰ってきた。

ヤクルトレディならぬマウントレーニアレディ。
寝つき悪くなるから効果は真逆です。